平和がいいって こういう時には体で感じる

明日の朝 セルビアを出て
ハンガリーはブダペストへ向かいます

さてセルビア


そそられるのが
そもそもの目的である難民問題か
普通の公園か
歴史のことで
めぼしい行き先が特にないと
部屋から出るのも夕方になってしまうインドア親子の私たち

外に出れば出会える人も 新しい発見もあるってのに

分かってるのに



トルコやギリシャに不法に入った難民たちにとっては
イラクやシリアからEU圏内へと向かう過程で
バルカン半島は欠かせない中継地点

首都の華やかなところに彼らが
うようよとしているはずもないのですが
何か糸口がないかと探してしまいます



さてセルビア


ユーゴスラビアとしてまとまっていた いくつもの国が
バラバラに分かれ
深まった溝がきっかけで
1999年にはNATO軍からの空爆を受けた首都のベオグラード

セルビアはこの 今はなきユーゴスラビア社会主義連邦共和国で
中心的役割を果たしていました

歴史に関することは
こちらのページでちょろっとお勉強してください
さくっと分かりやすいです
https://matome.naver.jp/odai/2136050694245945301?&page=1


歴史を知ると文化も分かってきて
それが旅に味わいを加えてくれます




ベオグラードで行きたかった空爆跡地

借りてるお部屋から1kmも離れていない場所にあります


ここが揉めていたその時は わたしは中学生で
テレビで観た 夜に光る爆弾の緑を覚えています

なんでこんなことになっているのか
テレビの向こうにどんな人がいて
どんな思いをしているのか
当時は全然想像できていなかったけど

今すれ違う人は
あの人もこの人もその体験を経てここにいると思うと
知らない人だけど
英雄のように見えてきます



当時の空爆は
民間人は標的にはされておらず(民間の被害者も多くいましたが表向きは)
爆撃跡地はかつて軍事施設があったところです


特にメモリアルの何かがあるわけでもないのですが
今も建物はそのままの状態で残っています



一言で言うと

『こわ』

コンクリートの塊が
こんなになっちゃうんだ…
って
その威力の大きさを目の当たりにするのは
思えば初めてです





すぐ横にはarmyの施設がありました
交差点には若い兵士が鋭い目で周りを警戒していました

ガイドブックにもさらりと載っているくらいだから
写真を撮る人は多いはずなのに
だいぶ警戒した目で見られました


軍事施設とは知らずに
道に面した階段で少し休憩していると
中から来た兵隊さんが 優しくここはダメだと教えてくれました



あまり今まで感じたことのない
重さというか厳しさというか
影というか
そういうものを感じます

だってまだ20年しか経っていない

建物がしっかり建っていても
短期の旅行ではインフラに不満が全くない程だとしても
人間はものじゃないですけん

空爆だけでない
ずーっと続く争いの先に訪れた今の平和の中には
その後片付けや
気持ちの向けどころを探す作業があります


自分や家族、友人が
「◯◯された」という終わりのないループから抜けて
隣国と手を取り合うには
時間もかかるし
世代を超えて 平和を構築するという信念と誠意が必要です


と言うのは簡単ですがね




あれ これってどこかでも言えますね
どこでも言えますね



ふらっと入った1畳半くらいのコンパクトなファンシーショップ

娘のおねだりで入ると
コンパクトなのに  
お店の上のマンションの住人と
お友だちが遊びに来ていて
おしゃべりを楽しんでおられました


いくつか話をして
「爆撃があってる時はどこにいましたか」
という質問をすると
「ここよ。避難する人は誰もいなかった」
と皆さんがおっしゃいました

民間施設への空爆は基本的にないとしても
何が起こる変わらない
空爆の跡地から歩いて5分の距離のお店です



あんな破壊力のある爆弾の音を
聞いていないはずがありません




生きていてよかった

単純に素直にそれだけ思う




お店のおばちゃんは娘にガムをオマケしてくれ
ピンクのーヘアのおばちゃんは
飴を買ってくれました

道を聞けば連れて行ってくれる

どこだって人は優しい

0コメント

  • 1000 / 1000